社会人が勉強のモチベーションを保つためには

近年、リスキリングがもてはやされて社会人の学び直しが話題になっています。

しかし勉強を始めたはよいものの、忙しい社会人が継続して勉強のモチベーションを保つのは、非常に難しいものです。

8時間の労働に加えて、残業や移動時間を考慮すると、”よし勉強しよう”と思ったら21時なんてことはざらにあります。

そして襲い掛かってくる誘惑。特に勉強しなければならないというトリガーがあるだけで、いつもの娯楽が2倍くらい楽しく感じます。

私も高校時代に留年しかかっていた物理のテスト前日にテレビで見たシャアの逆襲、本当に面白かったです。

継続的に勉強を続けるテクニックみたいなものはありません。

あるとすれば意思の強さや目標への拘りです。小手先のテクニックで変わるようなものではないです。

検索すれば、モチベーションの保ち方に関するハック術がたくさんでてきます。

todoリストを作る、まずは5分やってみる、目標を思い浮かべてみる、などなど。でも、モチベーションの保ち方を調べる時点で、すでにモチベーションなんてないんです。そんなときに、とりあえず行動をしてみるというのはあまり説得的ではないように思います。また目標がわかっているのに行動に移せないから困ってるわけで、改めて目標を思い浮かべたとしても重い腰が上がろうにも上がりません。

これらの小手先のテクニックよりも、もう少し掘り下げて、どのように思考するのがよいのか。自分も試験勉強をしてゆく中で、勉強のやる気がなくなることはよくありましたので、そのときにどういう風に考えていたのか、書いてみようと思います。

私の好きな本に「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル、みすず書房、2001年)があります。

これは、第2次世界大戦下でアウシュビッツ強制収容所で過ごした精神科医フランクルが、当時の体験をまとめた本です。

この本は本当に素晴らしく、折にふれて何度も読み返してるのですが、勉強のモチベーションが下がったとき、次の2つの言葉を思い出していました。

1 苦しむことも生きることのひとつ

ひとつめが、「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ」という言葉です。

要するに、生きてゆく上であらゆることには何かしらの意味があるということです。そしてその意味は自分で決定できるということです。

収容所の過酷な生活の中で、典型的な被収容者として破綻してゆくか、または、収容所にいてもなお人間としての尊厳を守ることができたのかは、収容所での生活をどのように捉えたかよります。

フランクル曰く、収容所の中では、クリスマスの後に急激に死者が増えたそうです。これはクリスマスには救われる、という漠然とした期待感が絶望に変わったとき、ただ収容所で生き延びることだけを考え、現在の苦しみに別段の意味を見出さなかった収容者は、精神が破綻してしまったそうです。

言い方を変えれば、もし収容所の中で苦しむことに意味がないとすれば、収容所での生に大きな意味はありません。自分の生死は偶然の僥倖に左右されるわけですから、どのように生きるのかという自己決定権を無視したものになるからです。

話を戻しますと、勉強をするのはめんどくさいですよね。もっと楽しいことがあるのに、なぜこのような苦しい作業をしなければならないのか、モチベーションが上がらないんですよね。

そんなときは、このように苦しむことにも何かしらの意味がある。もっと掘り下げて、苦しんで逡巡している今の感情にも意味があると考えていました。

もちろん苦しみから忌避してYouTubeを観るという選択もあります。けれども少なからず資格取得に向けて勉強することを決意したわけですから、モチベーションが低下してやる気が起きないという苦しみもあって、あなたの人生が完全なものになるんです。

まとめると、モチベーションが低下したときは、それ自体は仕方がないとして、この苦しみをどのように意味づけるかを考えていました。モチベーションを上げようにも上がらないときは、そのような自分の感情と向き合うことで、やるべきことが見えてくると思います。

これがひとつめの言葉です。

2 あなたの人生はあなたに何を期待しているか。

ふたつ目に、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」という言葉です。

これだけ読んでも何が言いたいのかわからないと思います。

ひとつめの言葉に戻りますと、生きるということは苦しみを含めた全ての総体です。生きることの一部である苦しみと対峙したときに、あなたがどう振舞うかが重要となるわけです。

あなたの振舞いを考えたときに、あなたは自分がどうしたいかと考えることもできますが、少し視点を転回してみて、あなたの人生があなたにどのように振舞って欲しいと思っているのか、このように考えることもできます。

フランクルは「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ」と述べます。

わかりにくいですし複数の解釈が成り立つようにも思いますが、私はフランクルの言葉を、自分がなにをやりたいのかという主観的な考えではなく、人生があなたに何を求めているのか、という客観的な視座に置きなおすことで、少し冷静な判断をできる、という風に解釈しております。

あなたはあなたなりに資格の取得を目指して勉強を目指したわけです。そんなときにどうにもこうにもやる気が起きてこない。自分では勉強しなければならないことは痛いほどわかっているけれども、体が動かない。そんなとき、あなたの人生は、あなたにどうして欲しいのかを考えてみるというわけです。

3 まとめ

なんだか大げさな話になってしまった気がします。平和な日本で死を意識する瞬間なんてありませんから、現実感を持てないようにも思います。

けれども、この怠惰な日常にもいつか終わりは来るわけで、生きることは死ぬことを意識した瞬間に現実味を持ってあなたに迫ってくるわけです。

少しでも思考の転換になりましたら幸いです。

以上

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